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  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    完全を受け入れる

    完全な人間がいるとする。 現実に存在するかどうかは重要でない。 完全な人間を、我々は受け入れることができるだろうか?

    社会では、不完全を受け入れることを良しとする人が多いように観察される。 例えば「所謂天才と呼ばれる人たちも、どこか苦手な分野はあるのだ。それが人間らしくて良いではないか」「完全な方法などない。どこかに改善点は存在する。それを探すのが大切だ」といった具合に。

    実際、不完全を受け入れて完全を目指すのは重要だ。 また、たとえ一瞬完全であっても、時間空間をはじめとした様々な変化によって、次の瞬間には不完全になっていることは大いにあるだろう。

    しかし、物事全てが不完全だという思考に囚われて、その一瞬の完全を、一瞬だけでも受け入れることすらできなくなっていないだろうか? もし、何にも影響されない完全が現れたら、受け入れられるだろうか?

    たとえ天才と呼ばれる人たちが、苦手な分野を努力でリカバしていたとしても、それを彼らが曝け出さない限り、表から見える部分だけを見るのが、礼儀だと思うのだ。

    わたしは、自分の前に完全が現れたとき、それを受け入れられる素直さを持ちたい。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    自宅のデスク周り

    年度末に引っ越すので、その前にデスク周りを記録してみる。

    Magic Keyboard と Magic Trackpad 2 は、操作感にはとても満足している。 ただ、マシンを入れ替えるときに、いちいち再起動して Bluetooth を再接続するのが面倒。 有名どころ?の HHKB や Keychron は、複数接続先を登録できるようなので、羨ましい。

    Dell 31.5 インチ 4K モニターに特に不満はないが、LG とかの 5K2K モニターも気になるところ。 ただ、プログラミング以外に動画鑑賞などでも使うので、16:9 ではないモニターの購入は躊躇する。

    常に MBA は開いているので、外部スピーカーは使っていない。 右からしか音が聞こえないのは違和感があるが、そこまでスピーカーに思い入れがなく、どちらかというと邪魔に感じるので、今のところ買っていない。 腰を落ち着けて動画を見るときは AirPods を使用する。

    Ergohuman SMART は、安いモデルではあるが、ランバーサポートがある。 高いモデルは買いたくないし、肘置きは邪魔なので、このモデルで良かったと思っている。 以前は、3000 円くらいの椅子だったので、これに変えてから腰がかなり楽になった。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    じょーほーしゅーしゅーをFEEDLYに任せている

    最近、RSS リーダーのFeedlyを使い始めた。 実は、使い始めるまで RSS という仕組みがあることは知っていたが、古い技術で、今は対応しているサイトはほとんどないだろうと思い込んでいた。 ただ、少し思いつきで調べてみたところ、思ったより多くのサイトが対応していた。

    例えば、技術ブログだと採用数の多いはてなブログや Medium で書かれたサイト。 Android Developers Blog や Docker Blog、Netlify Blog をはじめとした大手プラットフォームの開発者ブログ。 そして、驚いたのだが、YouTube の動画投稿も RSS フィードに対応している(niconico は非対応っぽい)。 Safari のブックマークと YouTube のチャンネル登録のほとんどを Feedly に移行することができた。 一部個人ブログなどで RSS フィードに対応していないところは残念ながら購読対象から外すことにした。

    RSS フィード対応数だけでなく、Feedly のデザインも使いやすく、特に文句はない。

    Feedly の一画面を見れば、自分の欲する新しい情報が手に入るのはとても楽で良い。 Twitter の TL にこの役割を担わせている人は多いかと思うが、わたしは自制心が弱いので Twitter だと関係ない情報までだらだらみてしまう。 Feedly を使う前は Twitter でじょーほーしゅーしゅーしていたのだが、Feedly の使用と同時に Twitter のアカウントは削除した。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    入間人間の作品語り

    入間人間の作品は、探偵・花咲太郎、クロクロクロック、みーまー、安達としまむらなど、いくつか読んでいます。

    彼の作品の魅力の一つは、登場人物が自由に生きていること、生を謳歌していることです。 殺し屋、女子高生、宇宙人、おじさん … 誰もが、自分の人生を歩んでいます。 そして、彼らは同じ世界に生きています。

    それぞれが自分の視点を持ち、そして同じ世界に生きる。 それは現実も同じで、そして彼らの生き方が理想ではないでしょうか。 所謂、“常識”というものには囚われず、自分の視点で生きる彼らの生き方を、常に見習っています。

    たとえ、通り魔に刺されても、宇宙人にキャトられても、自分を見失わないようにしたいものです。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    ミニマリストと持ち物リスト

    持ち物リストとは、PC や冷蔵庫、衣類などの持ち物を列挙したリストです。 これを手帳やアプリで管理している人がいますが、わたしはそのようなリストを持ちません。

    自分の持ち物は、現在持っているものでほぼ足りていると感じているからです。 つまり、何か新しく欲しいものは、ゼロではないですが、1 つ 2 つ程度で、頭で覚えられる程度です。 また、現在持っているものも、もちろんミニマリストなので、リストを作らずとも部屋を見渡せば把握できます。

    持ち物リストは、ミニマリストになるまでに、部屋を整理するには有効かもしれませんが、ミニマリストになってしまえば不要なものです。 不要なものは捨てましょう。

    むしろ、持ち物リスト無しで把握できる分だけを所有する人こそ、ミニマリストではないでしょうか。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    多重人格と共通思考

    真賀田博士や犀川先生は多重人格だ。 それは独立した思考あるいは性格が複数存在するという状態であるが、しかし、おそらくそれはクロックの速さによって成り立っているものだ。 つまり、思考は切り替わる必要がある。同時に複数は存在しない。

    では、共通思考はどうだろう。共通思考を構築するユニットである人間やウォーカロン、人工知能やトランスファは複数存在する。 もちろん、彼らは同時に存在しうる。
    これが共通思考の大きな特徴ではないだろうか。 共通思考は、多重人格とは似て非なるものだ。

    真賀田博士は、同時に複数存在する思考を、思考するユニットを複数繋げるという形で実現した。 これは無理のない方法ではあるが、しかし、人間の中に同時に思考を複数存在させるような方法ではなかった。 ただ、最初は無理のないサイズで作って、その後、サイズを小さくしていくのは、ものづくりではよくあることだ。 もしかしたら、共通思考が、人間のサイズに小さく収まるようになっていくのかもしれない。 そして、もはやサイズは重要な要素ではないのだろう。

    “彼”は何を問うのだろうか。 「自分は生きているか」問うのだろうか。

  • Hiroki SAKABE @hirokisakabe ·

    趣味と自己

    わたしの趣味をいくつか挙げるとすれば、喫茶店、旅行、読書などがある。

    しかし、それら趣味にのめり込むときもあれば、全く興味がなくなるときがある。 “飽き”があるのは当たり前かもしれないが、好きな喫茶店に、しかし今日半年ぶりに足を運んで、思ったことがある。

    わたしにとって趣味とは、自分を形成するものではないということだ。 ある趣味が好きな自分は確かにそこにいるが、あるときその趣味が嫌いになっても全くおかしくはないということ。 ある趣味があることがアイデンティティにはならないということだ。

    そして、それは現在の事実であるとともに、理想の状態でもある。 今日の喫茶店を例に挙げると、好きな喫茶店ではあるが、定期的に足を運びたいわけではない。 義務感などから足を運ぶのではなく、行きたいなと思ったときに、足を運ぶのだ。 次のそのときは、明日かもしれないし、一年後かもしれないし、もう二度とないかもしれない。 それでよいし、それがよい。 その趣味を止めても問題ないことを確かめると、自分がその趣味に縛られていないことを実感する。

    ちなみに、これは趣味に限った話ではない。 人付き合いでも、生活習慣でも同じことだ。

    そういえば、某泥舟さんが似たようなことを行っていた気がする。

    ここで思考がジャンプする。 わたしは、おそらく無意識に、自分を形作るものが何か考えているのであろう。 そしてそれが「喫茶店」や「旅行」や「読書」の一つ事であってはならないとも考えている。 そういった考えから、趣味を止められる状態が理想となるのだと推測する。

    「おそらく無意識に、自分を形作るものが何か考えている」と書いたが、意識では、自分を形作るものは、趣味であり、周囲の人であり、食べたものであると考えている。 というか、自分という概念に重要度を感じない。 わたしのトップレベルには「世界に重要なものなど存在しない」という考えがあるので、必然的に自分が何者かという問いも、どうでもよいものとなる。