趣味と自己
2020/09/10

わたしの趣味をいくつか挙げるとすれば、喫茶店、旅行、読書などがある。

しかし、それら趣味にのめり込むときもあれば、全く興味がなくなるときがある。 "飽き"があるのは当たり前かもしれないが、好きな喫茶店に、しかし今日半年ぶりに足を運んで、思ったことがある。

わたしにとって趣味とは、自分を形成するものではないということだ。 ある趣味が好きな自分は確かにそこにいるが、あるときその趣味が嫌いになっても全くおかしくはないということ。 ある趣味があることがアイデンティティにはならないということだ。

そして、それは現在の事実であるとともに、理想の状態でもある。 今日の喫茶店を例に挙げると、好きな喫茶店ではあるが、定期的に足を運びたいわけではない。 義務感などから足を運ぶのではなく、行きたいなと思ったときに、足を運ぶのだ。 次のそのときは、明日かもしれないし、一年後かもしれないし、もう二度とないかもしれない。 それでよいし、それがよい。 その趣味を止めても問題ないことを確かめると、自分がその趣味に縛られていないことを実感する。

ちなみに、これは趣味に限った話ではない。 人付き合いでも、生活習慣でも同じことだ。

そういえば、某泥舟さんが似たようなことを行っていた気がする。

ここで思考がジャンプする。 わたしは、おそらく無意識に、自分を形作るものが何か考えているのであろう。 そしてそれが「喫茶店」や「旅行」や「読書」の一つ事であってはならないとも考えている。 そういった考えから、趣味を止められる状態が理想となるのだと推測する。

「おそらく無意識に、自分を形作るものが何か考えている」と書いたが、意識では、自分を形作るものは、趣味であり、周囲の人であり、食べたものであると考えている。 というか、自分という概念に重要度を感じない。 わたしのトップレベルには「世界に重要なものなど存在しない」という考えがあるので、必然的に自分が何者かという問いも、どうでもよいものとなる。