勝山の由来は村岡山城らしい
2023/11/12

最近、白山やら立山やらに興味を持ったので、図書館で本を借りてパラパラめくっていたところ、勝山の由来が、平泉寺 VS 一向一揆勢における村岡山城であることを知った。

攻防戦は三日三晩もつづいたが、四月十四日早朝、平泉寺の背後に回った一揆方の決死隊七百人は、老僧ばかりの寺内になだれこみ、ところかまわず放火した。一山は早くも火の海につつまれたので、当時の平泉寺長吏、明王院の阿闍梨以下僧綱、学生らは相ついで猛火に飛び込んで果てたのである。平安時代以来、長い歴史を誇った平泉寺は、このようにしてついに亡んだ。また、この動乱は山内や六千坊、四至内はいうまでもなく、勝山盆地のすみずみまでも焼き尽くしたとされている。 平泉寺の資料は、このときほとんどすべてが失われたのである。しかし一揆は、このたびの勝ちいくさを祝福して、村岡山城を「かち山城」と呼んだ。これがかつやま(勝山)の名の起りなのである。

引用元 : 高瀬重雄「白山・立山と北陸修験道」, 名著出版, 2000年11月, 144ページ

ググったら、Wikipediaや勝山市のホームページにも、ちゃんと書いてあった...

天正2年(1574年)、かねてより所領独占問題において対立関係にあった平泉寺勢力との戦いに向けて、地元勢力である大野・南袋・北袋・七山家[1]の一向一揆勢によって築城が取り決められ、七山家の人々によって築かれたと言われている[2]。そして平泉寺は匿っていた朝倉景鏡を大将とし、一揆勢が立て篭もる村岡山城に攻め入るが反撃に遭ってしまう。その最中、援軍で駆け付けた一揆勢に手薄になった平泉寺を焼き討ちされ、景鏡は討たれてしまう。さらに出陣していた平泉寺勢も村岡山城の一揆勢の追撃に遭い、壊滅してしまう。この一連の出来事により、一揆勢は御立山をかちやま(勝ち山)と呼ぶようになり、現在の同市地名の由来になったと伝えられている。

引用元 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E

勝山の地名は一揆勢が立てこもった御立山(通称村岡山)を「勝ち山」と呼んだことから起こったといわれます。

引用元 : https://www.city.katsuyama.fukui.jp/site/mayor7/709.html

村岡山は恐竜博物館の南に位置する山だ。
行ったことがないので、今度行ってみようと思う。